諏訪湖と治水工事

 諏訪湖には上川、砥川など31もの河川が流れ込んでいますが、
 その出口は天竜川ひとつだけ。  

 天竜川は赤石山脈・木曽山脈という日本の屋根に挟まれながら流れ、
 伊那谷を形成しながら静岡県・浜松を抜けて、遠州灘に注ぎます。
 流域は急峻な地形のため、ひとたび大雨が降るとたちまち氾濫し、
 古くから「暴れ川」「暴れ天竜」と呼ばれてきました。
 
 一方、諏訪湖は平均水深が約7mと浅く、貯水量が少ないため、
 諏訪盆地も古来より多くの洪水の被害を受けてきました。 



治水事業が盛んだった諏訪湖

 江戸時代の頃、諏訪湖の水が天竜川へ流出する釜口付近は北側から陸地が大きく張り出しており、
 大雨が降って諏訪湖の水が増水しても、
 湖の水が速やかに天竜川へ流れ出るのを阻害していました(図A)。  
 
 元和元年(1615年)には、水路を設けて流出量を増やし、
 湖面水位を下げて干拓に役立てようとする試みが行われました(図B)。
 しかし、これによりに造られた干拓地は極めて低平で、
 しばしば洪水の被害を受けることになりました。

 そこで高島藩は、元禄2年(1689年)にもう一筋の水路「新堀」を設けました(図C)。
 しかし効果は薄く、幕末までに浜中島(図D)と弁天島(図E)を相次いで撤去するなどの
 治水事業が行われました。

 昭和に入ると、本格的な治水事業に着手。昭和12年に釜口水門(旧水門)が完成しました。
 しかしその後、昭和25年、36年の大洪水により計画を見直さざるを得なくなり、
 昭和63年7月に、旧水門の3倍にあたる600t/秒の放水量を持つ現在の水門が完成しました。