諏訪湖の弁天さま

弁天島が掘削され消滅してしまった後、弁天さまの社は釜口水門近くにある御社宮司神社に移されましたが、肝心の弁天さまは放浪の旅に出たと言われています。


諏訪湖の弁天さまは何処へ

 『復刻平野村誌』(昭和7年発行)によれば、
 「この社は祭神市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)で、
  明治以前は尾尻辨天島にあり、辨財天と称し、島の名もこれによったものである」とあり、
 「境内社厳島社は元無各社であったが、大正十年五月三十日本社へ合併を認可された社である」
  と記されています。
   ※『本社』とは「御社宮司神社」(岡谷市湖畔1-26-7)を、『厳島社』は弁天島から移設された弁天社を指す。

 この社は「小口治良右衛門の祝神」で、
 彼が「天正年間に尾尻堀割の際に東山田村へ移住した後も、社は弁天島にあった」といいます。

 また、「小社神号記」によれば、
 「寶暦年中三ノ丸(※高島藩家老家千野氏の別称)より石宮寄進あり。
  寛政十二年九月藩宰(※家老)千野氏の心願により同氏の支配となり、
  分霊して小口氏の祠は別に島尻に社地を築いて祀った」とあります。
 そして、
 「明治元年弁天島取払の際、後者はこれを東山田字小田野に移し、
  舊来の社は御社宮司社前の字辨天今の地に移座したのである」とも。

 つまり、分霊した小口氏の祠が旧東山田村に移され、家老の千野氏が寄進した祠が、
 この「浜中島弁財天」ということです。
 『平野村誌』に、弁財天社は「石宮」と記されているので、
 覆屋の右隣にある小さな祠が「浜中島弁才天社の元宮」です。

社は釜口水門近くにある「御社宮司神社」に移されましたが、
弁天さまはご不在。代わりに、弁天さまの絵が掛けられています。